地殻変動が作り出した大地の上に暮らす
- かなざわ森沢山の会 広報GS
- 2024年11月7日
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今年元日夕刻に発生した能登半島地震は、M7.6、輪島と志賀では震度7で、津波による被害も発生した。震源は長さ約150kmもの範囲となり、広範囲にわたって大きな影響を及ぼした。驚いたのは長岡市で震度6弱、新潟市中央区や上越市など広い範囲で震度5強を観測し、上越市の関川では津波が川を遡上した。この地震で被災された方々にお悔やみ、お見舞い申し上げます。元旦たまたま石川の隣の富山にいた筆者も、東日本地震の際、都内で体験して以来の大きな揺れを経験した。震度5強を観測した富山市でも液状化による道路や建物基礎の沈下、タイル等を貼ったビルの外壁の一部落下、灯篭や墓石の倒壊をあちらこちらで見た。いまだに墓石や灯籠などはそのままになっているところがほとんどだ。帰省の際に通過する糸魚川市(新潟県)でも棟瓦が落下して、養生してある家を見かけた。
この地震で能登半島北部では地盤が1mから4mほど隆起した。波打際は遠く沖合に退いた。9月の豪雨で水害をも被ってしまった能登北部を支援するため、筆者は10月下旬に奥能登に入った。東岸の珠洲市ボランティアセンターから、トンネルが崩れて復旧の見込みが立たない幹線を迂回して、旧道で峠を超えて西岸の大谷地区に向かった日のことだ。森林とくに人工林における大小多数の崩壊、沢を下った土石流の痕跡もさることながら、海岸を見下ろす所に差し掛かって目に入ってきた だだっ広い白い磯の異様は衝撃だった。岩表面の白い物は、ウニ、貝、フジツボ、サンゴなどの炭酸カルシウムを主成分とする外殻を持つ生物の死骸である。この写真で1mほどの隆起、数十mの汀線後退がわかる。


人の一生に比べれば遥かに長い間隔にはなるが、こういうことは度々起こっていることらしい。明治に始まった地震観測史上最も大きな海岸隆起は1923年の大正関東地震による房総半島の南端などの2mの隆起だった。三浦半島南端では1.5m隆起した。城ケ島の平らな岩場も隆起のなせる業。横須賀の久里浜には今の夫婦橋より下流にかつて入り江が漁港として機能していたが、隆起で湿地になってしまい、船の航行ができなくなって今の平作川を昭和初期に開削したという。能登の4mにせよ南房の2mにせよ、ここまで急な変動は予想できないと思われるかもしれないが、地形を分析すると、今回のような大きな隆起が何度も起きていることがわかる。その根拠となるのが海成段丘である。海岸沿いの階段状の地形で、海面の波の侵食で作られる平らな岩礁の地形が、地盤の隆起で干上がって作られる。大谷海岸でも雛壇状の段丘に家が建っていた。能登では過去6000年以内に3段の海成段丘が作られたことがわかっている。2024年 令和6年元旦の能登半島地震で4段目が形成された。三浦半島や房総半島では地震による1〜2mの隆起は数百年間隔で起こっている。こういった海成段丘は、三陸海岸北部、佐渡島外海府海岸北部、越前海岸、丹後海岸、室戸岬、宮崎県児湯地域沿岸部、鹿児島県喜界島の百之台でも見られる。
こういった隆起がこれまでなかったならば、急峻な崖地と海の間に人の住める場所は残らなかったにちがいない。断崖に波打ちつける海岸線になっているであろう。何度も地震で隆起している土地では、そう遠くない祖先が経験し、そのたびに乗り越えてきたのだから、現在も人が住んでいるのである。格段に高い技術を有する現代人がこの変動を乗り越えられないわけがない。
参考資料
宍倉正展 2005年1月 「海岸段丘が語る過去の巨大地震」地質ニュース605号
宍倉正展 2024年5月「能登半島地震で生じた海岸隆起は想定できたか」
Ocean Newsletter No.570
蒲田文雄 ウェブサイト「テーマ:地形地質、地震防災、災害など」から
『関東大震災の跡と痕を訪ねて〜横須賀市---地盤の上昇と内湾の変遷』
図:穴倉(2005)
文・写真:G.S.
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